母に教えてあげるときのむなしさ

ブログ続かないなー。

最近は、相変わらず仕事の クレーマー対応したりして疲れている。

1か月前には、クレーマーと向き合っていきたい気分だったんだけど

もう無理になってしまった。

自分的に限界にきてしまい、話をするのも嫌になってしまった。

以前は、人として「こうあらねば」という自分にこだわっていたので

きちんと対応しないといけない、とか、人権を守る、とかいろいろがんじがらめに

なっていたんだけど。

もうやめたー。「ねばならない」思考は、とにかく避けたい。

「あなたは、どうしたいの?」

「私は、だれにでも権利はあると思うし、人とは真剣に向き合いたいと思う。」

「向き合いたいと思っているんだね。」

「そうなの。でも、もう限界。だって傷つくようなことばかり言ってくるし、

1つの要求に応えると、次から次にまた新しい要求をしてくるんだもの。」

・・・という、自分との対話を通じて、クレーマーへの対応はやめることにしました。

 

そして、今月は(もう月末ですが)母の誕生日があったので、焼肉を食べに行きました。

そのとき、飲みながら母と「生きる意味」の話になり、私が、ヴィクトールフランクルの本を読んで、よかったよという話をしました。そうしたら「私にも貸して」と言ってました。貸すのは、全然かまわないんだけど、、

66歳にして、娘に「生きる意味」を問うなよ!!!と、思いっきり腹立ちました。

子供のころ。毎日のように、「死にたい。」と言って泣いていた母の姿を思い出し・・・憎しみが沸き上がります。

私は、自分の子供には、「死にたい」なんて絶対に言わない、隠しとおしてやろう、と思った。

反面教師であったとして、母は生きていてもいいのでしょうか。